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『おりがらみと一年の終わり』
2024.12.05更新
『日本酒と音』
六月は雨の季節だ。
本格的に梅雨も到来し、三日に一度はシトシトとした滴が地面を濡らす時期。
だけど私は、必ずしも雨は嫌いではなかった。
それは雨が降れば傘をはじめとした手荷物が増えるし、湿気で髪の毛がまとまりにくくなるし、太陽が見えない日が続くと何となく気持ちがどんよりとしてきてしまうところもある。
けれど物事は悪い面ばかりではない。
雨上がりの陽光を反射した景色はきれいだし、髪の毛はまとめれば新鮮な気持ちになれるし、お気に入りの傘やレインブーツをおろすと気持ちも上がる。
そして何より……このやわらかな雨の音をBGMに飲む日本酒は、悪くない。
雨音には、人の心をリラックスさせてくれる効果があるらしい。
〝1/fゆらぎ〟という規則性と不規則性が混在した周波数が含まれていて、それが自律神経を整えてくれるのだという。
音というのは面白い。
私の仕事がそもそも音に関わるものということもあって、それが時には味覚や嗅覚と同じくらい心の深いところに訴えかけてくることがあることを知っている。
例えば、日本酒にまつわるものだけでも音はたくさんある。
開栓時のポンという音、乾杯時にグラスが触れ合う音、生酒の発泡する音、お燗をつける時のお湯が沸騰する音。
どれもとても魅力的だ。
だけどその中でも、とりわけ私の胸を高鳴らせてくれる音がある。
それは何かというと……
「お待たせいたしました」
と、そこで注文していたお酒がやってきた。
目の前に置かれたのは、『夏酒 美涼 特別純米無濾過生 ひとごこち』。
夏酒らしいさわやかなラベルが印象的だ。
その見た目も涼やかなボトルを、店員さんが丁寧な所作で注いでくれる。
トクトクという小さな音とともにグラスがゆっくりと満たされていき……
そう、これが私の一番のお気に入りの音。
一升瓶からグラスへとお酒が注がれる音が、これから出会う新しい味への期待感ともあいまって、この上なく心地よく聞こえる。これはお酒が好きな人あるあるかもしれない。
「ふう……」
涼冷えのグラスをゆっくりと口にする。
やわらかで軽快な口当たりの夏酒は、静かに降り注ぐ雨音とともに、染み入るように喉を通っていった。
しばしその贅沢な時間を堪能する。
ふと外を見ると、さっきまでよりも雨脚がわずかに弱まっていた。
雨音のカーテンが一枚だけ取り払われて、聞こえてくる雑踏や店内の話し声が少しだけ大きくなる。
こういった何気ない周囲の音も、また楽しい。
一人だけど、一人ではないような、不思議な気分にさせてくれる。
雨が上がるまで、もう少しだけこのゆったりとした時間に身を委ねよう。
もしかしたら今まで気づかなかった新しい音に出会えるかもしれない。
そう心の中で小さくうなずいて、周囲の喧噪に耳を傾けながら、半分ほどに減ったグラスを傾けるのだった。
五十嵐雄策プロフィール▶
小説家・シナリオライター。
東京都生まれ。
2004年KADOKAWA電撃文庫からデビュー。
ゲームシナリオや漫画原作、YouTube漫画脚本やASMR作品脚本なども手がける。趣味はお酒を飲むこと、釣り、旅行、ドライブ、ピアノ演奏等。他、著作に「ひとり飲みの女神様」(一迅社メゾン文庫)、「ひとり旅の神様」(メディアワークス文庫)、「七日間の幽霊、八日目の彼女」(メディアワークス文庫)など。