『花見酒と〝縁〟』

2024.03.29

 

 桜の花びらが舞っていた。

 暖かな春の空気の中を、まるでピンク色の雪が降り注ぐかのように、ひらひらと優雅に舞い降りている。

「桜、きれいですねぇ」

 隣で遠慮がちな笑顔でそうつぶやいているのは、周囲に咲き誇る色鮮やかな花と同じ名前をした後輩。

 少し前に約束をした通り、二人でお花見をすることになったのだ。

 桜並木がある通りでのシートを敷いての飲食は、残念ながら今年も中止ということで、近くにある公園のベンチに座りながら、ささやかな宴を開いているところだった。

「これ、すごくおいしいです。口当たりがとても柔らかで……」

 手にしたグラスを傾けながら、後輩が小さく笑う。

『龍勢 桃ラベル 純米吟醸無濾過生原酒』

 春を感じさせる白とピンクのラベル。

 まるで桃のような香りの後に、甘味と酸味が舌の上を滑っていき、わずかな苦みとともに消えていく。まさにお花見を彩るにぴったりの〝花見酒〟だ。

〝花見酒〟は、文字通りお花見をしながらお酒を飲み交わすことを言うのだけれど、その歴史は豊臣秀吉が京都で催したという醍醐の花見までさかのぼるのだという。

 何百年も昔から、こうして桜の木の下で楽しげな時間が繰り返されてきたのだと思うと、少しばかり不思議な心地になる。

「今日は誘ってくれてありがとうございました。桜はきれいだし、お酒はおいしいし、すごく楽しいです」

 こっちを見上げながらそう微笑む後輩の姿。

 その笑顔は、普段の仕事の現場で見るものよりも、打ち解けたもののように思える。

 お酒には周囲の空気を柔らかくして、どこか人と人との間にある壁を薄くする力がある。

 いつもよりも自然と距離を縮めてくれて、多くの笑顔を促してくれる。

 それは見えない〝縁〟を繋ぎやすくしてくれる力なのだと――そう思っている。

 そういった何かが結ばれるのを感じることができる瞬間が、私はたまらなく好きだった。

「あ……」

 その時だった。

 辺りを気ままに舞っていた桜の花びらの一枚が、ふわりふわりと回るような軌道を描いて、そのままグラスの中に落下した。

 波立つお酒の水面の上に、波紋を広げながらゆらゆらと浮かぶ花びら。

 それはまるで、湖面にたゆたう小さな舟のように見えた。

「何だかお舟みたいです」

 奇しくも後輩も同じことを口にする。

 何気ない小さな光景に、同じ感想を抱いてくれたことに、思わずうれしくなってしまう。

「ねえ、桜ちゃん。この後、まだ時間はあるかしら?」

 このままこの時間が終わってしまうのは、何となくもったいない気がした。

 もう少しだけ、この桜のような笑顔の後輩と話をしてみたいと、そう思った。

 きっとそれも、〝縁〟なのだろう。

 幸いなことに少し歩いたところに通っているお店があるし、そこでゆっくりと春酒を楽しむのもいいかもしれない。

「はい、ぜひ……っ……」

 その提案を後押しするかのように、桜の花びらはなおも鮮やかに振り注いでいるのだった。

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