-
『おりがらみと一年の終わり』
2024.12.05更新
『花薫る日本酒』
だれにでも、忘れられない一杯というのはあると思う。
それこそ人生の転換点となるような、価値観を変えてしまうような、心に響く一杯。
私にとって……それは今から五年ほど前――まだ今の仕事を始めたばかりの頃に、先輩に教えてもらった一杯だった。
その頃の私は、日本酒が苦手だった。
今からでは考えられないことだけれど、だいたいの種類のお酒が好きな中で、唯一、日本酒だけは苦手としていたのだ。
理由としてはいくつかあったとは思うけれど……やはり決定的だったのは、学生時代に飲んだ日本酒の記憶ゆえだったと思う。
ツンとしたアルコールのむせるような匂いがまずダメ。息を止めながら何とかそれを喉に流しこんでも、続く味も辛いばかりで、まったくおいしいと思えない。
どうしてみんなこんなまずいものを平気な顔をして飲んでいるのかと、不思議で仕方なかった。
今思えば、それは造りのよくない粗雑な日本酒だったのだけれど……当時はあまりお酒には詳しくなく、そんなことは知る由もなかったのだ。
それ以来、日本酒だけは敬遠してきた。
飲み会などで周りに勧められても、理由をつけて、基本的には避けてきた。
――先輩に、こう言われるまでは。
『日本酒はおいしいよ。本当にまずいかどうか、この一杯を飲んでから言ってみてよ』
正直、眉唾だった。
先輩のことは仕事でもプライベートでも尊敬していたけれど、それでもその言葉を頭から信じることはできなかった。
とはいえ先輩にそこまで言われて断るわけにもいかない。
心の中で訝しげに首を傾げながら飲んだ一杯。
その時のことは、今でも忘れられない。
衝撃だった。
まず飛びこんできたのは花のような香り。
それは空気に触れるとさらに華やかに開いて、どこまでも豊かに広がっていく。続いて飲みやすいのだけれど奥深くしっかりとした旨味が現れたかと思うと、それらは淡い光のように余韻を残して消えていくのだ。
私の知っている日本酒とは何もかもが違いすぎて……今まで飲んできたものは何だったのかと、言葉を失ってしまった。
そんな私を見て、先輩は笑った。
『気に入ってもらえてよかった。ふふ、花が咲くみたいないい顔してる。こういうのは〝縁〟だからね』
その時の先輩の笑顔と、お酒の味は、胸の奥に焼きついたまま離れない。
それ以来、日本酒は私の最も好きなお酒となった。
そこからそれまでの乾きを癒やすように色々な日本酒を試すようになり、ますます日本酒が好きになって……そして今に至るのである。
私の中の、大切な大切な思い出だ。
そんなことをふと思い返してしまったのは、行きつけのこのお店に、その時に飲んだお酒が置いてあったからかもしれない。
花薫り光に満ちた、珠玉の一杯。
『純米大吟醸酒 花薫光 無濾過生々』
その懐かしくも、今でもなお鮮烈に残る味を、ゆっくりと舌の上で楽しみながら窓の外に目を遣る。
いつかだれかにも、自分と同じように忘れられない一杯が見つかればいいと思いながら。
【コミック連載】
五十嵐雄策原作『さけ×こえフルール~花めく新米声優ちゃんは日本酒女神と夢を見
る~』第1話「花咲く声と日本酒女神」
https://gs-ch.com/articles/contents/arUrpaGvaxQ7RzqES2sJAhcj
五十嵐雄策プロフィール▶
小説家・シナリオライター。
東京都生まれ。
2004年KADOKAWA電撃文庫からデビュー。
ゲームシナリオや漫画原作、YouTube漫画脚本やASMR作品脚本なども手がける。趣味はお酒を飲むこと、釣り、旅行、ドライブ、ピアノ演奏等。他、著作に「ひとり飲みの女神様」(一迅社メゾン文庫)、「ひとり旅の神様」(メディアワークス文庫)、「七日間の幽霊、八日目の彼女」(メディアワークス文庫)など。