『桃の節句とにごり酒』

2025.02.28

  三月三日。
今日は桃の節句――そう、ひな祭りの日だ。
 今の仕事をするようになって一人暮らしを始めてからは、実家のようにお雛様を飾ることはなくなってしまったけれど、代わりに楽しみにしていることがある。
 それは何かと言うと……
「うん、今年はこれ」
 うなずきながら、手にした四合瓶を傾ける。
 まるでヨーグルトや牛乳のように真っ白な液体が、少しだけ粘性をもって滑るようにグラスに注がれていく。
『白真弓 とろーりにごり原酒』


 楽しみというのは、ある意味で普段と同じ、お酒を飲むこと。
 ただし飲むお酒は……〝にごり酒〟に限っているということが、普通の晩酌とは異なる。
 何年か前に知ったのだけれど、ひな祭りには〝白酒〟を飲む風習があるのだという。
白酒というのは、みりんや焼酎などに蒸した米と米麹を混ぜ合わせ、一カ月程度熟成させた後に、すりつぶして造った、白く濁った酒のことを言う。


 長寿への願いと厄払いの意味を込めて、桃の花を浮かべて飲むのだという話だ。
 この白酒には桃の色を引き立たせるという役割もあるため、同じように白いにごり酒や甘酒などで代用されることも多いらしい。
 そのことを知ってから、毎年ひな祭りの日にはにごり酒を飲むのを、個人的に密かな楽しみにしていた。


「いただきます」


 そう手を合わせて、グラスをゆっくり口元へと運ぶ。


 まず感じたのは、つきたての餅のような、濃厚なお米の香り。


 以前に飲んだ〝おりがらみ〟よりもさらに濃い旨みが、クリーミーな口あたりとともに喉を通り過ぎていく。


 飲んでいるというよりも、まるでお酒を食べているかのよう。


 そして濃厚なのに後を引かずにすっと消えていくやさしい甘さは、どこか気持ちをほっとさせてくれて、まさに桃の節句にぴったりなお酒だと言えた。


「ふぅ……」


 余韻に浸りながらひと息吐く。


 ひな祭りといえば……さっきも言ったように実家にはお雛様があった。
 私のために祖母が買ってくれたものだったけれど、子どもの頃はそれがどこか怖く感じられた。
 切れ長の目とすまし顔、独特の雰囲気が、そう感じた理由だと思う。


 泣きながらそのことを伝えると、祖母はやさしく微笑みながら私の頭を撫でてくれた。細いけれど温かな手で、私が泣きやむまで何も言わずにずっと傍にいてくれた。


 その時から、少しだけ、お雛様のことが怖くなくなったのを覚えている。
 どうして急にそのことを思い出したのかはわからない。


 子どもの頃に飲んでいた甘酒が、にごり酒とどこか風味が似ていたからかもしれない。
 味覚には、そういった昔の懐かしい記憶を思い起こさせる力があるのかもしれないと思った。
 きっとこれも、ある意味では、〝縁〟と言えるのだろう。


 ――ひさしぶりに祖母に電話をしてみようか。
 お雛様の白粉のようなにごり酒を口にしながら、そう思ったのだった。

さけ×こえフルール第6話(五十嵐雄策原作)
【G’sチャンネル掲載URL】
https://gs-ch.com/articles/contents/ar92hDKWKNjyPQ2mvfasohjP

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五十嵐雄策プロフィール

小説家・シナリオライター。東京都生まれ。
2004年KADOKAWA電撃文庫からデビュー。
ゲームシナリオや漫画原作、YouTube漫画脚本やASMR作品脚本なども手がける。趣味はお酒を飲むこと、釣り、旅行、ドライブ、ピアノ演奏等。他、著作に「ひとり飲みの女神様」(一迅社メゾン文庫)、「ひとり旅の神様」(メディアワークス文庫)、「七日間の幽霊、八日目の彼女」(メディアワークス文庫)など。

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