『日本酒と甘やかしの時間』

2025.06.07

その日は、色々なことが噛み合わない一日だった。

 早く終わるかと思われた仕事は予定時間を大幅にオーバーすることになり、現場の挨拶もそこそこに慌てて出ることになった。走りながら次の現場に向かったものの、途中で電車が遅延していて、仕方なくタクシーを拾うことになった。

さらには向かった先の現場でもちょっとしたトラブルが起こるというオマケ付き。いつかの全てがスムーズにいった日とは真逆の……言ってみればとことんツイていない一日だった。全ての仕事を終えて最寄り駅に帰り着く頃には、もうクタクタだった。

 そこから這うようにして何とか家まで帰り着いたものの、さすがに今日は何もする気が起きない。メイク落としなど最低限のことだけは済ませたら、あとはもう自分を慰めるお楽しみの時間だ。

 こんな日には……おあつらえ向きのお酒がある。

『かたふね はなじかん』

 冷蔵庫から取り出した、見た目はまるでアイスワインのようなそれをワイングラスに注ぎ、そのままそっと傾ける。蜂蜜のような香りがふわりと漂い、少し遅れて甘酸っぱい味が喉を潤した。

「はぁ……」

 そこでようやく、ホッとひと息吐くことができた。身体に澱のようにまとわりついていた疲労が、きれいに浄化されていくように感じられる。甘さというのは、やさしさだ。疲れた心と身体の緊張をそっとほぐしてくれて、やわらかくしてくれる。

 フワフワとした多幸感に包まれながら、もう一口。

 ふと目に入ったラベルには、『金曜日 午後9時45分のお酒』と書かれている。一週間が終わるその時間に、がんばった自分を甘やかしてほしいという思いからつけられた名前なのだという。

 あいにく今日はまだ平日だったけれど、気分的にはたっぷり自分を甘やかしたいと思っていた私にとって、まさにぴったりのお酒だった。ゆったりとした空気に身を委ねながら、おかわりをグラスに注ぐ。

 自分をとことん甘やかす。

 それは簡単に見えて、実はとても難しい。特に歳をとればとるほど、自分を甘やかすということが何か悪いことのように感じてしまうようになるのかもしれない。

 だけどそれは絶対に必要なことだと思う。

 今のこの、身も心もゆっくりとほどけていくような、やさしい花のおもてなしに包まれているような時間――〝はなじかん〟を一人のんびりと堪能するのは、人生における恵みの雨のようなものなのだ。

 幸いなことに、明日は仕事は入っていない。

 まだまだこの自分だけのごほうびの時間を楽しむことができる。どうせだったら、以前に買って取っておいたお高いチョコレートも開けてしまおうか。『はなじかん』の貴腐ワインのような甘やかな味わいは、少し苦めなチョコレートにもよく合う。もう今晩は、どこまでも自分を甘やかすことに決めた。

  心がふんわりと躍るのを感じながら、ゆっくりとグラスを傾けるのだった。

さけ×こえフルール第6話(五十嵐雄策原作)
【G’sチャンネル掲載URL】
https://gs-ch.com/articles/contents/ar92hDKWKNjyPQ2mvfasohjP

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五十嵐雄策プロフィール

小説家・シナリオライター。東京都生まれ。
2004年KADOKAWA電撃文庫からデビュー。
ゲームシナリオや漫画原作、YouTube漫画脚本やASMR作品脚本なども手がける。趣味はお酒を飲むこと、釣り、旅行、ドライブ、ピアノ演奏等。他、著作に「ひとり飲みの女神様」(一迅社メゾン文庫)、「ひとり旅の神様」(メディアワークス文庫)、「七日間の幽霊、八日目の彼女」(メディアワークス文庫)など。

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