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【四季桜】
2026.07.01更新
【廣戸川】
全国各地「蔵の味」を求めて旅をする
日本酒をこよなく愛する呑む文筆家が、地元でしか醸せない唯一無二の「蔵の味」を求めて全国各地の酒蔵へ旅する連載「蔵の味」。第7回目は、福島県の天栄村にある「廣戸川」を造る松崎酒造へ伺いました。
「廣戸川」松崎酒造

“じわじわ”という言葉がこれほど似合う蔵はなかなかない。福島県の「廣戸川」である。筆者は10年以上前からこの酒を取材し続けているが、取り立てて目立つ酒質ではないにも関わらず、飲み手一人一人の懐にじわじわと入り込むように、気がつけば支持者が増え人気銘柄の仲間入りをしていた。実は同業の蔵元や杜氏でも「廣戸川」のファンは多く、中には自社以外で最も好きな一本としてこの酒をあげる造り手もいるほどだ。
そして、日本酒を提供する酒場で見ない日はない、とは言い過ぎだが、何軒か行くうちに出会える確率は高く、「廣戸川」を愛する店主は大勢いる。それは酒質に惚れ込むだけではなく、とある店主が言っていた「主張が強い酒ではないのに、なぜか廣戸川はリピーターが多い」のように、おかわり率が高い、つまり着実に利益へつながるところも、長く愛される理由だろう。

流行り廃りが激しい日本酒の世界で、このタイプの目立たない酒質が人気銘柄になるのは容易ではないのに、なぜ「廣戸川」はここまで安定して売れるようになったのか。今回はその秘密に改めて迫りたい。
花盛りの若手時代に掲げた主張しない酒質
「最終的には気持ちよく酔って「廣戸川」だということを忘れる陰のような酒でありたい」
これは、筆者が「廣戸川」を最初に書いた2015年刊行の初作『蔵を継ぐ』(単行本版・双葉社)のインタビューで当時31歳(現在41歳)の松崎さんが語った言葉だが、その言葉通り彼が目指す「廣戸川」の初動は実に地味である。
当時この酒は無色透明に近い透明感があり、優しい旨みと平坦なキレ味が特徴だったが、確かに控えめすぎる印象だった。

2015年頃といえば、20代後半から30代前半の若手の造り手が続々と台頭してきた時期で、かつては出展する機会がほとんどなかった無名の若手を中心とした日本酒イベントも多く誕生し、筆者が見た限りではどこも満員御礼。まさに若手蔵元あるいは若手杜氏が横並びで注目を集めた花盛りの時代である。

甘味や酸味の主張が強いジューシーで派手な酒質が続々と出てきたのもこの頃で、特に競争相手が多い若手はなんとかして売れたい、また目立ちたいと、甘酸っぱいジューシーな酒に代表されるような主張した酒質をこぞって模索していたように思う。

ところが、「廣戸川」はそんな花盛りの若手時代のど真ん中にいたはずなのに、主張する酒質とは真逆のタイプを人知れず目標に掲げ、静かに6代目・松崎祐行の造る「廣戸川」をスタートした。
半径20キロ圏内から全国へ
「廣戸川」の創業は明治25年。最盛期でも製造石数は700石と小規模な造り酒屋を代々続け、造るのは普通酒メインであくまでも売り先は地元が中心の地域密着型商売。「酒蔵から半径20キロ圏内で商売する」を謳い文句にしていたという。

しかし、時代と共に消費量低迷で出荷量は減り続け、松崎さんが四年制大学卒業後に蔵へ戻った頃にはわずか200石まで製造量が落ち込んでいた。
さらに、追い打ちをかけるように2011年3月11日の東日本大震災の被害に遭い、20年以上働いていたベテランの南部杜氏は体調を崩し引退。その頃の松崎酒造のステータスだった“南部杜氏”が造る酒を変えたくなかった5代目は、他の南部杜氏を探していたが、松崎さんはここで一念発起し、心配する両親の猛反対を押し切って自分が杜氏になると決めた。

そして、普通酒メインの製造から脱却し、純米酒などの特定名称酒を柱に全国展開へ。冒頭で書いたような何とも地味な酒質を目標に掲げた。

「一杯で終わるのではなく一升を飲み干してもらうような酒を造りたかったですし、自分もそういう酒がもともと好きなんです。
でも、本当のことを言うと、自分が杜氏になった頃は目立つタイプのキラキラ系が多かったので、そこは他のスター系の蔵にお任せして、あえて少数派の反対を狙った方が生き残れるのではないか、という気持ちがありました。それに、地味な酒の方が自分らしい。興味本位で香りが強い派手な酒質を造ったこともあったんですが、残念なことに自分に全くしっくりこなかったんですよ」

人の目(口)に留まりやすい主張の強さを捨てることは、多くの銘柄に埋もれる可能性が高いはずだが、彼は勇気を持って自分が飲みたい自分らしい等身大の酒質を志した。その志は当初、人気銘柄になる素質はないと思われたが、多くの日本酒業界のプロたちの予想に反して、日本酒愛好家にじわじわ支持され、全国各地に小さなうねりを作るように10年かけてファンを広げて売れていった。


酒造りの最盛期は、松崎さんの母親である英子さんが、蔵人たちのためにこの様な朝ごはんを作ることも。おむすびも惣菜もおいしい
数字も明確だ。製造石数500石だった2015年に彼は「1000石が目標です」と言っていたが、今期は1300石に迫る勢い。これは松崎酒造が創業して以来、最も多い製造量である。
定番酒を筆頭に需要と供給を諦めずに紡ぐ
強い主張を捨てた「廣戸川」がなぜ売れたのか。酒のPR法や売り方の模索に時間をさくよりも、四の五の言わずに酒質を地道に磨いたのは大前提なのだが、一つに最も売りたいラインナップを確立し、多くの人が手に取れるよう製造量の比重を増やしたことが挙げられるだろう。彼が最も売りたいラインナップとは、プレミアでも季節限定でもない定番の特別純米。現在、「廣戸川」の製造量の半分近くを担う蔵の顔だ。

「自分が最も飲んでほしい通年売っている定番酒です。目新しさは全くないですが変わり種でウケを狙うよりも、「廣戸川」らしさを好きになってほしいので、10年以上かけて特別純米の酒質改善に力を入れてきました。今は杜氏になった当初より味わいに旨みのボリュームを持たせているので、目指す酒質のテーマは全く変わりませんが、単なる地味な酒からは抜け出せたと思います(笑)」
酒造りを続けていると、酒質の方向性を見失いそうになることも、手っ取り早く売れたくなることもあるだろう。でも、「廣戸川」は目指す酒をブレずに淡々と造り続けてきた。つまりそれは、いつ飲んでも変わらない印象を与える酒になるのだが、だからこそリピーターはリピーターを長年やめずに飲み続けたくなるのではないか。このシンプルな需要と供給を諦めずに紡いでいったことも、「廣戸川」がじわじわ売れた秘訣だろう。
「商品を増やさずに特別純米が売れたおかげで1000石を越せました。自分の造りたい酒と飲み手が求めていることが一致したことになるのですが、これはものすごく嬉しくて気持ちいいことだったんです。なので、今後もより特別純米に力を入れたいので、ラインナップもかなり絞り、雄町や山田錦などの米違い酒をなくし、現段階では秋らしい季節感を表現できてなかった秋あがりもやめました。
秋酒というよりも、単なる秋に出している酒だったので。中途半端な酒は出したくないです」

そう話す彼からは、何となく商品を増やしたり漫然と酒造りをしたくない、というものづくりを担う人としての健全で誠実な気持ちが伝わってくるのだが、少なからずその思いは酒質に反映され、飲み手にじわりと伝わるのだろう。思えば、あらゆる場所でこの酒を飲み続けてきたが、「廣戸川」を口にすればみんな顔がほころび、目尻が下がる光景をたくさん目の当たりにしてきた。
「もともと積極的なPRが苦手でイベントもあまり参加しないのですが、自分が動かなくても酒が一人歩きしてくれればそれでいいかなと。自然に飲んでくれた人の心に残る酒でありたい。改善に終わりはないので、これからも酒質をひたすら磨くだけです」
<著者プロフィール>呑む文筆家・唎酒師/山内聖子/1980年生まれ、岩手県盛岡市出身。22歳で飲んだひと口の日本酒がきっかけでライターの道へ。駆け出しの頃は浜松町時代の名酒センターでバイトしたことも。現在は酒にまつわることについて各媒体で執筆中。著書に『蔵を継ぐ』(双葉文庫)、『いつも、日本酒のことばかり。』『夜ふけの酒評 愛と独断の日本酒厳選50』『日本酒呑んで旅ゆけば』(共にイーストプレス)、『酒どころを旅する』(イカロス出版)、『BARレモン・ハート意外に知らない酒の基本知識』(双葉社)など。Instagram


















































