-
【蔵元訪問記】蔵元訪問記/天鷹酒造(栃木県)
2024.10.29更新
【蔵元訪問記】田村酒造場
「田村半十郎と田村酒造場は表裏一体。田村半十郎が存在するから、「清酒嘉泉」があって、田村酒造場があるから、田村半十郎がある」と語る現16代目蔵元。200年続く家業を丸ごと受け止め、平成20年(2008年)に「田村半十郎」を襲名。16代目当主が見据える田村酒造場の未来とは。
今は自然体に
●酒蔵を継がれる覚悟は?
小さい頃から意識していて、嫌だなとか、他の仕事につきたいと思ったことはないです。人が評価してくれて、そういう人間でいようと、自分を作っていきました。25歳で田村酒造場に帰ってきたら、すぐ専務になって社長業務を任せられたのにはとまどいはありましたが・・・。
いろんなことを経験し、人との関わりが沢山あって、物事の進め方、決着のつけ方を体験していくと、自信になってくるんです。今はまったく自然体になりました。
●蔵元のお仕事は酒蔵だけではない?
田村半十郎と田村酒造は表裏一体。一番大切なのが田村酒造場の仕事ですが、その他に30くらいの役割を担っています。再開発の理事長、観光協会の会長、消防団の会長、都市ガス会社や自動車販売会社の役員、地元信用金庫の役員‥など。地域のために、要望されたらそれに応えたい。
大きな転機
●酒造りはされますか?
酒造りはやったことないですが、広敷には小さい頃から入ってました。親方と一緒にストーブに当たったり。1週間に1回ほどはいろんな宴会がありました。その時に呼ばれて、お酌しなさいとか、ちょっと酒舐めてみろとか・・。
●杜氏さんはどちらからですか?
創業以来越後杜氏だったんですが、東京局の鑑定官室長の薦めで昭和47年に南部杜氏に切り替えました。父は感謝を伝えたくて、田村酒造場に関わった越後の方全員、杜氏や蔵人に声を掛けて、新潟県の料理屋を貸し切ってご馳走しました。
昔の親方のお墓にもお参りにいきました。米処の越後から来ているのに麦飯は出せないと、米不足の時も白米を蔵人さんには出してたと聞いています。それぐらい蔵人さんたちは大切にしてきました。
南部杜氏に切り替えたのは転機になりました。鑑定官室の先生に、方向性の転換を勧められたのです。資金を少し投入して、精米歩合を上げ、2級酒より少し高い価格で売る商品を造りました。
「幻の酒嘉泉」です。三造酒が多い中、すっきりと喉を通る酒があまりなくて、足りなくなるほど人気となりました。消費者の方はよくわかるんですね。
働き方改革で次世代に繋ぐ
●社長の代になって変えたことは?
30年ほど前から、高齢化の進む杜氏制度、過酷な労働環境等を見直しました。ベテランの杜氏さんが来て良い酒を造るけど、その酒造りの知識は杜氏さんの頭の中にあるだけ。酒蔵の中に技術が残らない。親方が変われば再現できない。
そこでデータ蓄積ができて夜も温度管理できる設備を入れました。異常があったら、すぐ通報できる装置です。通いになってもできるように、働き方改革を試みました。そこから徐々に社員を入れ、20年前に社員杜氏に切り替えました。次の世代に繋げていくためにと、必死でした。
いい状態で消費者に届ける
●最近蔵見学を受け入れられてますね?
去年初めて蔵開きをしました。まずは、蔵の存在を知らせたい。酒蔵へ行ってきてよかったねと言ってもらいたい。インバウンドにも期待してます。いい酒を造れば売れると思っていたけど、存在の見せ方も売れる要素ですね。
。
●田村のお酒のチャームポイントは?
生れたままを大事にしたいです。冷蔵設備ができ、純米吟醸以上は全部冷蔵施設に入ってる。いい状態で消費者に届けることができます。
●田村酒造の酒蔵はとにかく綺麗ですね。
綺麗な環境じゃないと綺麗な酒はできないという感覚がずっとありました。床は磨き、天井から柱まで磨き上げます。昔からしてることだから、今さらやめることはできない。
●今年200周年を迎えられましたが、今後の100年を見据えると?
次の100年は、ぶれずに、時代とともに変化させるのが必要。頑なに伝統とか言ってるのではなく、時代に合わせたやり方で、次の100年を作っていきたいです。