誌面ビミーで長年連載している中沢けい氏の「酔々日記」です。文士の筆遣いに、日本酒が気持ちよくあふれでてきます。

【中沢けいの酔々日記】春のひとしずく

2023.03.30

その昔「俺の酒を飲めないと言うのか」と始まる喧嘩を実際に目にしたことがある。どうもお酒は紅茶が好きか緑茶が好きかという好みの問題を超える何かがある。お酒を飲む人のそばで「お茶にします」と言うとつまらないと怒る人もいる。

一緒に飲んでくれてこそのお酒というわけだ。人間関係を結びつけるしるしとしてともにお酒を飲むという習慣はお祝いの時の乾杯、不祝儀の時の献杯にそのすがたを残している。

 お酒を無理強いすることがなくなったのは、たいへんけっこうなことだ。乾杯の形式だけでむりに飲めないものを口にしなくともよいのだから安心である。それでも一緒に飲んでくれないとさびしいと言う人はまだまだいるようで、これはこれで、なんとなくおもしろい気がする。

 今年の春は奇妙だ。冬枯れの雑木林を背景に辛夷(こぶし)の白い花が咲く。辛夷が満開になるころ、冬枯れの雑木林も表情を変え、欅や橡(くぬぎ)、イヌシデなどが芽吹き始める。

いつもの春の景色を桜が猛烈の勢いで追い抜き、枝いっぱいに花をつけてしまった。いささか面食らう展開だ。桜は土の温度が上がると開花するそうで、だから、その年の稲の育成状態を占うのに適していると聞いたことがある。

それならば、今年はどんな年になるのだろう。稲はもともと南方の植物で、日本の東北地方や北海道で育てるのは難しかったとも聞く。米から作るお酒はある程度の冬の寒さが必要だと聞いたこともある。

温暖化の影響で、冬も暖かくなった本州から北海道での醸造を試みる酒造家もいると聞いたこともある。

 野山の雑木林の芽吹きを追い抜く桜の開花で、舌に美味い春のひとしずくのお酒が思わせることもさまざまになった。それでも春の花のしたで味わう酒が格別のうまさを持っていることにかわりはない。

さよならとおめでとうが同居する卒業シーズンだ。

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