誌面ビミーで長年連載している中沢けい氏の「酔々日記」です。文士の筆遣いに、日本酒が気持ちよくあふれでてきます。

【中沢けいの酔々日記】 てんぷら山の上のお銚子

2024.03.29

お茶の水の山の上ホテルが閉鎖になった。今後、どうなるのかは分からないそうだ。取り壊されることもないとは限らない。

 私が通った明治大学は山の上ホテルを囲むように校舎が配置されていたので、馴染みの深いホテルだ。小さなホテルだが、和洋中を備えたレストランはとても充実していた。

 そのなかでも、てんぷら山の上は評判が良かった。カウンターの向こうの調理場には氷を使った旧式の冷蔵庫の扉が並んでいた。氷を使った冷蔵庫は、てんぷらのネタが乾燥しないと聞いたことがある。今では冷蔵庫の技術は以前と比べようもなく進歩しているから、手間とお金がかかる氷の冷蔵庫にこだわる必要もないのだろうけど、頑丈そうな冷蔵庫の扉は眺めているには好ましいものだった。

 季節の野菜と魚介を揚げたてのあつあつで食べる天ぷらは贅沢なものだ。で、お酒は、いろいろあるけれども、燗酒を注文する金属の徳利に柄がついた物が出てきた。

屋台などで使うちろりとお銚子の中間のような酒器で、ごちそうだけどカジュアルな天ぷらという食物に似つかわしい形だった。これが気に入り、どこで購入することができるのかと尋ねたら「こちらをお持ちください」と一つ包んでくれた。大きな出版社の編集者と一緒だったから大サービスをしてくれたのかもしれない。ありがたく頂戴し愛用している。

 使い勝手がよく丈夫、けれどもくだけ過ぎないお銚子だ。こんなお銚子を出すお店も山の上ホテルの閉館と一緒になくなってしまったかと思うと、これはまたたいした宝物になったものだと、感慨もひとしおになる。

 森鴎外は自宅を観潮楼と名付けた。鴎外の時代には東京湾の潮の満ち引きが東京の高台の家からも見えたのだろう。大きな入り海の東京湾では、天ぷらにぴったりなキスやハゼ、メゴチなどの魚が豊富だった。そういう時代の最後を知っているのは幸福なことだ。

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