誌面ビミーで長年連載している中沢けい氏の「酔々日記」です。文士の筆遣いに、日本酒が気持ちよくあふれでてきます。

【中沢けいの酔々日記】 江戸切子の盃

2024.05.30

夏の日本酒はちょっと苦手。冷酒でも、飲むと身体が火照る。寒い時に身体を暖めるにはありがたいお酒でも、夏はそれが仇になる。身体が火照るだけならいいが、蚊もよってくる。だから夏は日本酒を遠慮したいのだが。

 もうずいぶん昔、スーパーの店頭ワゴンで江戸切子の盃を買った。紺色のガラスで、盃の底にだけ切子の文様が入っている。買物に出たついでに、手持ちのお金で買えた盃だから、それほど高価なものではない。この盃の出番は夏にしかない。冷やしたお酒をほんの一口だけ飲もうかなと誘惑の盃だ。

 入梅鰯と言う、梅雨の頃の鰯は脂がのってうまい。麦烏賊と言う。麦の実る頃の烏賊はまだ大きく育っていないので、柔らかい。麦烏賊は刺身より煮つけが好きだ。鰹が並ぶ魚屋の店先に鮎の稚魚が出てくる。天婦羅にしてもいいけど、山椒と一緒に甘辛く煮つけたので、冷酒をほんの一口だけ飲むのも楽しい。川も海も初夏の気配だ。

 八百屋の店先では蚕豆の出番が終わり、枝豆が出てくる。豆の実はまだ太っていない。しじかみ生姜が出回る。ビールの御供がお決まりだけど、あの紺色の江戸切子ガラスの盃にも似合う枝前であり、はじかみ生姜だ。青上の季節でもある。枇杷も出てくる。

 三年ほどまえの台風のためにすっかり荒れた房州の枇杷山も、ようやく、まともな枇杷が収穫できるところが増えた様子で、通信販売のサイトを眺めるだけでも、なんとなくそれを感じることができるのがうれしい。枇杷色という。枇杷こそ紺色のガラス盃によく似合う色の果物だ。枇杷の実の中からほとばしる甘く透明な汁と、冷えた日本酒のハーモニーは絶妙。初夏の日暮れの楽しみだ。

 スーパーの店先のワゴンでみつけた盃がこんな楽しみをそっと運んできてくれるとは、衝動買いも悪くないなあと、冷酒を食前酒として飲んでいる。

中沢けい公式サイト|豆畑の友 (k-nakazawa.com)

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